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2024年からの記憶と記録
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「手足が動く限りやりつづける」パキスタンと日本の架け橋となり続けた50年~安宅茂行インタビュー(3)
( 前回の記事 )在カラチ日本国総領事館でパキスタンと日本の文化交流に尽力してきた安宅茂行さんは、民間レベルでの友好促進団体設立の必要性を痛感し、PJCAを設立。在職中の心残りを晴らすため国際ジャーナリズムシンポジウムを開催。安宅さんの活動は、より広く、より細やかなものになっていく。 ■100%無料の火傷治療センター ――安宅さんのキャリアで、これまでのお話しと少し毛色が違うように思えるのが、フレンズ・オブ・バーンズセンターのプロジェクトです。これは火傷専門の治療機関なんですよね。 私が勤めるバーンズ・センターは官民共同事業なんです。官というのは、シンド州政府で、民はNGOのフレンズ・オブ・バーンズ・センターです。このセンターでは、火傷の治療が100%無料です。薬代、治療代、皮膚移植を含む出術代、入院費、血液バンク、理学療法、全て無料です。付添人の食事も提供しています。 ――手厚い施設ですね。なぜそんなセンターができたのでしょうか? 終戦の年に大阪で生まれた安宅茂行さん。その半生をパキスタンと日本の文化交流のために尽くしたが、その歩みを止めること
Tetuya Futigami


「手足が動く限りやりつづける」パキスタンと日本の架け橋となり続けた50年~安宅茂行インタビュー(2)
(前回記事から) 尊敬するパキスタン人の恩師カシュフィ先生に誘われてパキスタンの巨大都市カラチへ向かった安宅茂行さんは、早々に軍事クーデターが発生するなど波乱に見舞われる。カラチ大学に通うようになるが、卒業を前に日本総領事館に誘われ、パキスタンと日本の文化交流事業に携わることになる。 ■パキスタン・日本文化協会(シンド)設立とフォトジャーナリストシンポジウムの開催 ――領事館でパキスタンと日本の文化交流事業をされていた安宅さんが、パキスタン・日本文化協会(シンド)(以下PJCA)を設立されたのは、いつのことですか? 2002年のことです。前身となるパキスタン・日本文化協会は、カラチが首都であった時代から存在し、非登録団体ではあったものの活発に活動していましたが、首都がイスラマバードに遷都となり、様々な事情があって1985年頃には事実上消滅状態でした。私は長年の活動を通じて、特に民間レベルでの文化交流団体の設立の必要性を痛感するようになっていました。そこで、カラチ在住のパキスタン人親日家で著名な文化人の方々に声をかけ、紆余曲折を経て2002年8月に
Tetuya Futigami


「手足が動く限りやりつづける」パキスタンと日本の架け橋となり続けた50年~安宅茂行インタビュー(1)
一人の人が一体どれほどのことを成し遂げることができるのか、お話しを伺って感嘆せざるをえない人がいる。 2024年にパキスタンのカラチで開催された世界文化演劇祭に日本代表として招聘された劇団Theatre Group GUMBOの公演は当地で絶賛され、大成功した。そして、招聘を支えてくれた一人の男性と出会った。 彼は、大阪に生まれ育ちながら、その半生のほとんどを遠く離れたパキスタンのカラチで過ごし、主にパキスタンと日本の文化交流に尽力し続けた。 今回の記事で紹介する、その人の名は安宅茂行さん。在カラチ日本国総領事館では、日本広報文化センターの副所長や総領事顧問を務め、現在はパキスタンの最大都市カラチにある火傷専門病院のバーンズ・センターでアドバイザーの任にある。 安宅さんとパキスタンの縁はどこからどのように始まったのか、まずは半世紀前の出会いから語っていただいた。 ■尊敬する先生に誘われパキスタンへ 帰国中の安宅茂行さんに2024年11月、大阪市内でお話しをうかがいました。 私が初めてパキスタンと関わりができたのは、1970年です。大阪万博の年です
Tetuya Futigami
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