top of page

「手足が動く限りやりつづける」パキスタンと日本の架け橋となり続けた50年~安宅茂行インタビュー(2)

  • 執筆者の写真: Tetuya Futigami
    Tetuya Futigami
  • 11月1日
  • 読了時間: 10分

更新日:11月25日

ree

(前回記事から)尊敬するパキスタン人の恩師カシュフィ先生に誘われてパキスタンの巨大都市カラチへ向かった安宅茂行さんは、早々に軍事クーデターが発生するなど波乱に見舞われる。カラチ大学に通うようになるが、卒業を前に日本総領事館に誘われ、パキスタンと日本の文化交流事業に携わることになる。



■パキスタン・日本文化協会(シンド)設立とフォトジャーナリストシンポジウムの開催

――領事館でパキスタンと日本の文化交流事業をされていた安宅さんが、パキスタン・日本文化協会(シンド)(以下PJCA)を設立されたのは、いつのことですか?


2002年のことです。前身となるパキスタン・日本文化協会は、カラチが首都であった時代から存在し、非登録団体ではあったものの活発に活動していましたが、首都がイスラマバードに遷都となり、様々な事情があって1985年頃には事実上消滅状態でした。私は長年の活動を通じて、特に民間レベルでの文化交流団体の設立の必要性を痛感するようになっていました。そこで、カラチ在住のパキスタン人親日家で著名な文化人の方々に声をかけ、紆余曲折を経て2002年8月にシンド州政府にNGOとしてPJCAを登録することができました。

俳句ムシャイラや和歌ラーグも、現在はPJCAの年中行事として実施しています。


パキスタン・日本文化協会を設立。同協会は現在も精力的に活動し、両国の絆を深めている。(写真提供:PJCA)
パキスタン・日本文化協会を設立。同協会は現在も精力的に活動し、両国の絆を深めている。(写真提供:PJCA)


――安宅さんは、パキスタンと日本の文化交流を推進する重要な組織を設立されたんですね。


PJCAの一番大きな事業といえば、国際フォトジャーナリズム・シンポジウムというのがあります。これは2008年に実施しました。

私が長年携わってきた広報文化というのは、ジャーナリストたちと関係を地道に築いていくということが重要なんですが、予算が少ない日本はお金をばらまいて関係を築くということはできないので、地道な努力を積み重ねてしっかりとした良好な関係を築いてきました。ところが総領事館時代に私の知らないとこっろで総領事館とフォトジャーナリストとの間で残念な出来事があり、良好な関係が一瞬にして崩壊してしまったのです。それが私は無念で、定年退職後までずっと引きずっていたんです。

定年退職後私は、パキスタンが今まで私に多くの幸せ、素晴らし家族、友人、名誉等を与えてくれたことに感謝したく、何かパキスタン社会に恩返しができないだろうかと考えるようになっていました。

そこで、思いついたのがフォトジャーナリストのための事業です。

パキスタンのフォトジャーナリストは、他の先進国のパパラッチのようなものではなく、非常に真摯に仕事に向き合い、一生懸命任務を遂行している人たちです。しかしながら、社会的地位が低く、待遇面も劣悪で、一般の人々のジャーナリストの仕事に対する認識も乏しいです。しかしながら、待遇の改善を前面に掲げると雇い主(新聞社)との軋轢が必ず出てくるので、雇い主と衝突しない形で何かできないかと考えました。それには、人々にフォトジャーナリストの社会的重要性を認識してもらうことが、地位向上を促し、引いては待遇改善にも繋がるのではないかと考え、国際フォトジャーナリズム・シンポジウム開催を思いついたんです。

カラチにはパキスタン報道写真家協会(Pakistan Association of Press Photographers(PAPP))というクラブがありました。彼らも私のアイディアに大賛成してくれました。ただ、後でわかったのですが、このPAPPは名前にパキスタンを冠していますが、カラチだけのクラブだったんです。

次にカラチ・プレス・クラブにも話をもっていきました。カラチ・プレス・クラブの当時の会長が、非常に優秀で人望のある方で、やるならこの地域(SAARC)の主要国のフォトジャーナリストも招待したらどうかとアドバイスをくれました

私がそこで痛感したのは、やはりこのような大きな事業になると個人では対応しきれない、組織でやるべきだということでした。そこで、私が2002年に創立したPJCA主催で開催しようと考えました。しかしながら、PJCA主催となれば、日本との関係がなければできません。日本からフォトジャーナリストを招聘して、実施しようじゃないかと考えつきました。


――どんどん大きな話になっていったんですね。


それでPJCAの当時の会長であったバジアさんに話を持っていったら、それはいいことだと喜ばれて、パキスタン、日本、インドからフォトジャーナリストを呼ぶという案がでました。ただ問題なのは、やはり資金なんです。フォトジャーナリストの多くは低所得者層に属し、旅費等の資金集めは全部我々がしなければなりません。それで国際交流基金に助成申請をしました。申請書提出期限直前に私がA型肝炎に罹り、高熱で寝込んでいる中、急遽私の自宅の枕元でPJCAの執行委員会を開催し、執行委員会満場一致で承認を得て提出しましたが、不採用となりました。そこで、もう一度国際交流基金のプログラムの内容を詳しく研究し、国際交流基金が地域のネットワーキングに力を入れてることに気づきました。そこでもう少しネットワーキングを強化した内容にしようと申請内容を練り直し、SAARC(南アジア地域協力連合)の大半の国を呼ぼうということになり、パキスタン、日本、インドのほかパングラデシュ、スリランカ、ネパール、アフガニスタンも入れて申請したら、今度は助成の申請が通りました。ただ国際交流基金も全額出してくれないですからね。シンド州政府に話を持って行って、知り合いの情報大臣に話すと、彼女がシンド州政府が残りの資金を出しますと約束してくれたんですが、多くの人から口約束なので出してくれないかもしれないと言われ、それで政府から援助金が出なくてもできるように計画を練り直して開催したんですが、最終的には政府も資金を出してくれました。

それ以外にも、シンポジウム実施の少し前に、首都イスラマバードでマリオット・ホテル爆破テロ事件が起こり、治安悪化で外国人参加が多いため開催実施が危ぶまれましたが、何とか開催に漕ぎ着けることができました。


――それは良かったですね。


SAARC各国からはみんなハイレベルのフォトジャーナリストが集まってくれました。特にアフガニスタンのフォトジャーナリストは、その後ピューリッツアー賞を取りましたからね。日本からも毎日、読売、朝日の三大新聞からフォトジャーナリストを送ってくれて、すごい大会になりました。もちろんパキスタンも全国から集まってくれました。シンポジウムは2008年11月に二日間開催しました。会場は総領事館とインダス・バレー美術建築大学の二か所で、総領事館ではシンポジウムを、大学では各参加者の撮った報道写真約800点の展示をしました。た。


――ものすごく大規模になったんですね。


国際ジャーナリズムシンポジウム閉会式の様子。(写真提供:パキスタン・日本文化協会(シンド))
国際ジャーナリズムシンポジウム閉会式の様子。(写真提供:パキスタン・日本文化協会(シンド))

大規模ですね。フォトジャーナルについて基調演説をしてくれたのは元連邦情報大臣。「表現の自由」について講演してくれたのが、後の最高裁判所長官です。そういう素晴らしい方たちが参加してくれたんです。そして2日間のシンポジウムが終わり、閉会式で素晴らしいことがおきました。

一つ目はシンド州主席大臣が参加して、PAPPに500万ルピーを寄付すると言ったんです。みんな口約束だと思って信じてなかったんですが、情報大臣がフォローしてくれて本当に出してくれたんです。

二つ目は、このシンポジウムでパキスタンのフォトジャーナリストたちは全国組織が必要であることを痛感し、丁度1年後の2009年11月に全国組織パキスタン・フォト・ジャーナリスト協会(PAPJ, Pakistan Association of Photo Journalists)を立ち上げました。

三つ目は、朝日新聞です。朝日新聞はそれまで、毎年アジアとアフリカからジャーナリストを一名招聘して、6か月の研修をしていました。朝日新聞から参加した武田さんという方が、フォトジャーナリストもジャーナリストだと会社を説得して認めてもらい、その第一号として国際シンポジウムを開催したパキスタンから一名フォトジャーナリストを招聘することとなり、当時パキスタン国営通信社のAPP(パキスタン国営通信社)のフォトジャーナリストが6カ月の研修に朝日新聞本社に行きました。これも素晴らしかった。

四つ目は閉会式で、バングラデシュの代表が南アジアのフォトジャーナリスト協会(South Asia Photojournalists Association (SAPA)を作りましょうと提案し、満場一致で採択され、各国の代表が集まって、舞台の上で手を取り合って万歳しました。


――感動的ですね。


感動的でしたよ。バングラデシュ代表がSAPAの第一回総会を翌年バングラデシュで開催しますので、皆さん必ず参加してくださいと言ったんですが、資金が無いんですよ。結局実施できなくて、このままではせっかくの国際フォトジャーナリズム・シンポジウムの前向きな副産物であるSAPAが、消滅してしまうことが危惧されたので、私がまたPAPJ主催という形式で国際交流基金に申請して、SAPAの第一回総会をカラチで開催しました。この時、私はパキスタンの首都イスラマバードまで行ってパキスタン首相に出席を依頼し、参加してくれました。


――それはすごいですね。しかし、何がすごいかというと、安宅さんのなさっていることが、全部そこで終わるんじゃなくて、未来につながっていることではないかと思います。未来に花が咲くよう、種を撒いてらっしゃるところがありますね。



■パキスタンと日本の絆を強くするだけでなく


――パキスタンと日本の交流に尽くしてこられた安宅さんから見て、両国の関係についてはどう思われますか?


パキスタンの人々は、非常に日本のことが好きですよ。歴史的にもね。例えば、2011年の東日本大震災の時、何か被災者を励ますことは出来ないかと、私の発案でPJCAが音頭を取り、ソリダリティ(連帯)ウォークを実施しました。3月11日に震災が起き、9日後の20日に実施しました。その頃は、まだ日本政府の方針が決まってなくて、寄付は受け付けてなかったのですが、自主的に寄付をする方もいました。そんな中、20日に、ソリダリティウォークを実施し日曜日の早朝にもかかわらず600人以上、沢山のカラチ市民が集まってくれました。あの時は、本当に色んな知らない人も来てくれて、やはり日本というのは愛されているなと感動しましたね。パキスタンで震災があった時も、一番初めに駆けつけてくれたのは日本だったし、東日本大震災直後にパキスタンの方が被災地に炊き出しなどにもいきましたよね。


東日本大震災発生から9日後の3月20日に開催されたソリダリティ(連帯)ウォークには、日曜早朝にも関わらず600人以上の人々が集まった。
東日本大震災発生から9日後の3月20日に開催されたソリダリティ(連帯)ウォークには、日曜早朝にも関わらず600人以上の人々が集まった。

――一方で、日本ではパキスタンのことがあまり知られていない。日本の書店では、パキスタンのことを書いた入門書的な書籍とかも、見当たらないように思います。


PJCAは、両国の絆を強くするため相互理解を促進する活動をしてきました。しかし、我々がやってきたのは、ほとんどワンウェイで日本のことをパキスタンに紹介することのみに重点を置いてきました。でもそれだけじゃ片手落ちなんです。パキスタンのことをもっと日本に紹介し、日本におけるパキスタンの歪んだイメージを矯正しなくてはならないと強く感じました。そこで、私は前回日本に一時帰国した際に、この目標を達成する手段として、将来の日本での協力団体を探すことに奔放しました。

それで色んな人にお会いしたんですよ。有力な在日パキスタン人、東京外国語大学、大東文化大学、大阪大学、それからパキスタン大使館及び日本・パキスタン協会。パキスタンは本当はもっと素晴らしい国だと日本の皆様に知ってもらいたいですね。

日本でパキスタンについて研究されている研究者というのは、本当に少ないと思います。パキスタンには、研究材料が一杯転がっているんです。簡単に博士論文書けると思うんですけれど。

そんなこともあり、この前に東京外大の先生、大東文化大学の先生、大阪大学の先生にお会いして、自分の責任でパキスタンに来たいという学生がいて、先生が紹介状を書いてくだされば、カラチでは私の家に泊ってくださいと申し入れました。その後、東京外大から2人の学生が我が家にやって来ました。これからもどんどんパキスタンに来て自分の目でパキスタンの素晴らしさを確しかめて欲しいですね。


つづく


パキスタン・日本文化協会:https://pjcasindh.com/

コメント


bottom of page