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執筆者の写真Tetuya Futigami

全ては熔けゆくAYTF Team JAPAN「MELT AWAY」レビュー(1)




まずはアジアンユースシアターフェスティバルムーブメント(以下、AYTFM)とは何かについて述べておきましょう。

AYTFMは2016年に、「劇場から世界を変える」を掲げてシンガポールの劇団Buds Theatreの呼びかけによって始まった国際プロジェクトで、当初はASEAN10か国にバングラデッシュ、日本が加わっていく形で始まりました。これまで各国の国内事情などで参加国の増減がありましたが、2024年にはスリランカ、ネパール、さらにイギリスも加わりアジアを越えた広がりを見せています。


その目的は、各国が協力して舞台芸術を志すユースを、世界をけん引するリーダーに育てるというもの。各国のルーツ、伝統文化を重視する一方、毎年現代社会の問題をテーマに設定して作品作りに取り組み、問題解決には「アジアの連帯」が必要だとしています。


2024年のアジアンユースシアターフェスティバルの開催地はタイランドのチェンマイ。「気候変動」がテーマです。日本からは、AYTF Team JAPANとして、演者4名、スタッフ1名の5名のユースが参加します。

今回、チェンマイへ出発する直前に、作品「MELT AWAY」のリハーサルを鑑賞する機会を得ましたので、そのレビューをお届けいたします。


▲ダンサーの川﨑咲花(かわさきさくら/左)さんと期待の若手シャンソン歌手の平松隆壱(ひらまつりゅういち/右)さん。



春の風が立ち上る。

最初は春から始まりました。演者の一人、平松隆壱さんが歌う「早春賦」が春の訪れを告げ、他の3人がムーブメントで春に色を添えます。春夏秋冬に寄添う日本文化をピックアップし、その魅力を伝えるシークエンスです。四人の演者が一丸となって、春・夏・秋・冬を表現していきます。

四人の演者は、そのベースとなる技術でタイプを分けるなら、平松隆壱さんが歌手、本職はシャンソン歌手で、三嶋莞奈さん、川﨑咲花さん、畑有飛さんはダンサーとなります。平松さんの歌が軸となり、三人のダンサーのムーブメントで表現の肉付けをするのが、チームの基本的な表現スタイルのようです。


▲ダンサーの三嶋莞奈(みしまかんな)さん。



次のシークエンスでは、一人が一つの季節を担当、三嶋さんが春、畑さんが夏、川﨑さんが秋、平松さんが冬となり順番に短いパフォーマンスを行います。この時、季節の歌として、良く知られた松尾芭蕉の俳句が使われました。最初に日本語で、次に英語でフレーズが季節順に何度も繰り返されていきます。春・夏・秋・冬、春・夏・秋・冬、順当な四季の循環、四季の移ろいがわかりやすく表現されます。


しかし、この循環にほころびが生まれ始めます。季節の譲り渡しに齟齬が生まれ、季節と季節がぶつかりはじめます。

狂いが生まれ、いよいよ「物語」の幕が開けたのでした。


▲ダンサーの畑有飛(はたゆうひ)さん。



夏の暑さが沸騰し、春を追いやり、秋との交代を拒否する。四季の対立と葛藤が生じ、均等だった四季の関係が支配と服従の関係へと変質します。

最初のシークエンスが長くとられていたのは、十分に意味のあることだったと感じます。この助走のシーンが長かった分、跳躍は大きくなる。滞りない円環の世界から、破綻した世界へと物語は一気にはね飛びます。

そこからはピントの狂った眼鏡をかけたまま見知らぬ土地を歩かされるかのような、不安定な世界が始まります。聖書にあるバベル後の世界のように誰とも言葉が通じず、不条理の暴力に引きずり回される。覚めない悪夢のような、不思議のアリスとねじ式を足してドグラマグラを掛け合わせたような、閉塞感と出口のない彷徨に観客は付き合わされるのです。異常気象は、人間の社会、人間関係、人の尊厳をもドロドロに熔かしていく。


そして擦り切れるような旅路の末、四季は熔解して個性を失い無味無臭無表情の終末がまっている。なんというディストピアなのか。そして、このディストピアが来ないとは誰にも言えないと私たちは気づかざるを得ない。うすら寒いエンディングです。



▲破綻していく人間関係。熔けていくのは倫理観か社会規範か。



全てひっくるめて作品を評価してみましょう。

やはり、振付の妙については取り上げないわけにはいきません。特にアクションは、殺陣師映見集紀さんの功績が大きい。次に、演者四人とスタッフの真渕華圭(まぶちはなか)さんを加えた五人で、この難しいテーマを話し合い、作品の骨格を組み立てていったのは見事で拍手を送りたい。夏の暴力にさらされる春と秋を女性が演じることで、現代日本の男女格差を暗示しているのも、抜け目のない手腕です。


世界が破綻していく一連のシークエンスは、非常に複雑で変化に富んだもので、演者のパフォーマンスを十分堪能することができますし、シーンが意味するものを類推するのも楽しいことでしょう。






個々のパフォーマーを評すれば、まず平松さんは、歌の上手さは折り紙つきで、歌手としての場数を踏んできた経験が演技にも生きていました。舞台上で一瞬も気を抜かずにずっと観られる存在で居続けた、それは魅せる演技を続けていたからで、安定した存在感が光っていました。

畑さんは、ダイナミックな踊りが持ち味ですが、ソロパートが即興だったことに驚かされました。直感に従い技術に自信をもって突き進んでいけば、どんなパフォーマンスを見せてくれるようになるか楽しみです。

川﨑さんは、身体操作で魅せることができるパフォーマーだと感じました。長く積み重ねてきた鍛錬が見て取れます。鉄塊を叩きに叩いて刃へと生まれ変わらせるように、さらに鍛錬を続けて自分だけの刃を持つようになると面白い存在になるのでは。

三嶋さんは、舞台のアクセントになる存在でした。演技のタイミングがいいのだと思います。特異点のように舞台に出現して目を引きます。ダンス以外の場面でも、演技としての動きがちゃんとできていました。

舞台には出ていませんが、この作品に日本文学を持ち込んだのは、日本文学を専攻していた真渕さんの手柄なのでしょう。この作品は日本の四季というより、四季によりそう日本文化の崩壊こそがテーマなので、真渕さん無しには成り立たなかったに違いありません。


一方で、四人ともに感じたのは、テーマを咀嚼しきれてないのではということです。

冒頭で和歌(やまとうた)を使った瞬間に、思い浮かんだのは古今和歌集の有名な仮名序の一文です。

「和歌(やまとうた)は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」

心を種として、万の言葉を尽くすものが和歌なのなら、心を種として万の身体技術で表現するのがこの作品でしょう。四人それぞれの技術は、目を見張るものがありました。しかし、「心」の部分、何を訴えようとするのか、テーマをかみ砕き我がものとし、自分自身のメッセージを見つけ発するのでなければ、技術も持ち腐れになってしまいます。

パフォーマンスを繋ぎ合わせた抽象性の高い作品で、ドラマやセリフといった要素がほとんど無いだけに、心と技術がダイレクトにつながりごまかしがきかない作品です。AYTFの本番まで時間はあまりないでしょうが、個々人がどれだけ作品に向き合うかが問われると思います。

また、帰国後も天理大学で作品発表の機会があるとのこと。良い作品なのは間違いないので、「心」にかける時間を増やして、作品の深度を高めて欲しいと思いました。



次の記事で、五人へのインタビューを掲載します。


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